FC2ブログ

プラちゃんの部屋~変てこスリランカ人留学生(だった)奮闘記~

漢字間違えてても言葉変でも気にしないでね~

クルネーガラの孤児院

皆さん、こんにちは!
この間のブログで、たくさんの人からわたしたちを応援してくれているメールを
もらいました。もう何年も前にオーダーをくれたお客さんとかも、ずっと見てくれていて
本当に嬉しかったです!赤ちゃんはすごく順調で、陽子ちゃんも体が落ち着いてきたみたい。わたしは、陽子ちゃんが病院からもらった写真を見て、後ろからみた耳や顔の形がわたしに似ていたから、毎日見て楽しんでいる。
優しい心で応援してくれている皆さん、どうもありがとうございました。

ところで、昨日「弾丸トラベラー」という番組で、女の人が二人でスリランカに
行っていたんだけど、見ましたか?あれは1日でスリランカを旅行する番組だから、
すごい急いで回っていたんだけど、どうせ来たならもっと仏教の遺跡を見て
もらいたかったなあと思った。でも、やっぱりテレビで気軽に行ってもらえるくらい
スリランカが日本の人にとって、身近の国になってきているみたいで嬉しかった。
番組の最後でナワラタナもプレゼントでやっていたね。何人かの人が
スリランカのお守りで、幸せももらえて良かったでしょう!

今回は何を書くかというと、わたしたちが募金をあげてきたスリランカの孤児院から
メールがきて、やっと出来ました、ありがとう!というメールをもらったことだ。
わたしたちは、今回のスリランカで最後の方で、クルネーガラに行った。
クルネーガラは、私たちがいるガンパハという県から車で3時間くらいの都市だ。
そこから、いろいろな道がつながっていて、仏陀の歯のお寺があるキャンディや、
アノラーダプラというところとか、いろいろな大きな都市に向かう道がクロスしていて
中継の都市みたいになっている。そこのある村に、陽子ちゃんがわたしと知り合う前に大学院の研究で滞在していて、わたしと結婚した後も何度か一緒に遊びに行っている。ここに前のブログ前のブログがあるから読んでみて。

これがクルネーガラのタウン。右側に大きな山の上に仏陀の像がある。



何かお土産を買っていこうといって、ぶどうやオレンジをいっぱい買った。



お世話になる家に着いたときは、もう夕方になっていた。実はその家の電話番号を持ってくるのを忘れちゃったから、電話しないで突然行ったんだけど、スリランカはそういうのはみんな気にしないで、よく来たね~といってみんな喜んで迎えてくれる。

夜ご飯が出来るまでみんなでテレビを見ているよ。わたしの隣にいるのがダヤンという、
この家の長男。その隣がだやんの友達で、女の子はダヤンの妹イシャーニ。


ちょっとしていると、お母さんがご飯が出来たから食べてと言った。スリランカでは
みんなで一緒にご飯はあまり食べないで、お客さんに先に食べてもらう。

今日のご飯。ダール豆のカレーと魚のカレーいためと、ポテトカレー。
わたしたちは、お肉は食べなくなったと言ったら、いろいろ気にして作ってくれた。



陽子ちゃんは、先に食べおわって逃げようとしたけど、わたしだけずっと長く
食べているのは恥ずかしいから待っていて!と言った。だって超おいしいから!


この日は食べ終わったあと、みんなでいろいろ話をしておわった。
次の日、わたしたちはクルネーガラにある孤児院に行くから、この家には1日で
さよならをしないといけなかった。この家の人たちはわたしたちがいるのが楽しいから
もっといてと言った。わたしは、何年前かわすれたけど、最初ここにくるとき、
陽子ちゃんの知り合いの家でびびっていた。だけど最初からこの家の人たちは
わたしを家族みたいに迎えてくれて長男のダヤンもわたしをお兄ちゃんと
言ってくれてすごく嬉しかった。ほんとは時間があったらもっといたかったけど。
最後に記念写真を撮ったよ!

真ん中はお母さん。お父さんは朝早くたんぼに行った。
陽子ちゃんはダヤンが好みのハンサムになったという!


ちなみにこれが陽子ちゃんが滞在していたとき。もう8年くらい前だって!
お寺の前でとった写真。後ろの一番左にいる小さい子がダヤン。陽子ちゃんの隣に座っている女の子がイシャーニ。この日はダンパーサという日曜の仏教学校の日だから、白い服を着ているんだよ。みんなこんな小さかったんだね!


わたしたちは、家にお別れしたあと、その村のお寺にいってお坊さんにも挨拶にいった。
これがそのお坊さん。上の写真のお寺だよ。壁が緑になったでしょ。



お坊さんは、いろいろ話をしてくれた。お母さんが亡くなったことを言ったら、
気持ちをわかってくれた。スリランカではお母さんを「アンマー」というけど、
自分の叔母さんにも「プンチアンマー」や「ロクアンマー」と言って、お母さんという
名前がつく。お坊さんは「プンチアンマーとか、ロクアンマーとかお母さんという
名前がつく人は何人もいるけど、自分で心から甘えて「お母さん」と呼べる人は
一人だけからね。いなくなったら寂しいね」と言ってくれた。わたしはまたちょっと
泣きそうになっちゃったけど。こういうふうに気持ちをわかってくれて、いろいろ
相談できるところは、スリランカの村のお寺のすごく良いところだなあと思った。

この村をでたあと、クルネーガラのタウンの方に戻って、陽子ちゃんのめざす
孤児院にいった。そこの孤児院は、日本のスプートニクというNGOがサポートしてやっているところだ。
2年前、陽子ちゃんの友達のれいこちゃんがスリランカに来た。最初わたしの家に
2週間くらい泊まって、その後何かボランティアがしたいといって、クルネーガラの
孤児院にいった。言葉もわからないのに、大丈夫だいじょうぶーと言って、一人でバスに乗っていったからわたしたちは心配していたんだけど、スプートニク人がちゃんと
とまるところやいろいろやってくれて、れいこちゃんはすごく充実したステイが出来たという。子供たちもかわいかったし、ご飯もおいしかったよと教えてもらって、わたしたちも今度いったらいってみようと話していたんだよ。

タウンから少し車ではしって、ちょっと森の中にいったところにあるという。
ほんとにこんな田舎なのかな?と心配だったけど・・・



こんなめっちゃ綺麗なところだったー!!!



環境もすごくいいし、良いところだなあと思って中に入った。

庭ではイギリス人のボランティアの女性が2人と子供たちが楽しく遊んでいたよ。



ちょっと外で見学させてもらったけど、ここは日本人の先生が一人いて
子供たちは日本語もならっている。歌をうたっていたのは「ひなまつり」という歌。
イギリス人の女の人も、紙に書いて「アカリヲツケマショ ボンボリニー」と
頑張って歌っていて驚いちゃったでしょう!!!わたしは歌えないのに!



これは何をしているのかというと。「幸せなら手をたたこう」という歌という。
しあわせなら頭たたこう!といって、みんな頭をたたいていて面白かった。


日本語も教えてもらって、すごく良い環境だし、ここは何だかヘブンみたいだなあと
思ったけど。わたしたちが出来ることはなんかあるかなあと言って、先生に聞いてみた。最初、わたしたちはノートや鉛筆とかを買っていこうかと思ったけど、聞いてみると
この孤児院は比較的恵まれていて、そういうノートや鉛筆は普通のスリランカひとが
ちょっとずつでも買って、あげることが出来るから、たくさん集まってくるという。
同じように、服も結構つかったものでも綺麗のものが集まってくるという。
じゃあ、何ができますかと聞いた。

これが子供たちの部屋。この部屋で何か足りないものは?



話を聞いてみると、ここは出来て2年だけど、ずっと困っていたのは
子供たちの部屋にカーテンがないことだという。ここは「ガールズホーム」といって
女の子だけのところだけど、カーテンがなくて部屋が外から見えるから
困っていたという。最初小さい子ばかりだったというけど、段々女の子が大きくなって
いくと、やっぱりカーテンがないと中が見えるみたいで恥ずかしいという。
じゃあ、どうして前からなかったのかというと、やっぱりそれは資金の問題だという。
ノートや鉛筆や服は個人個人がちょっとずつでも買ってあげればたくさん集まるけど
カーテンはたくさん必要で、ある程度大きなお金がないとこの施設全部に
いれることが出来なかったという。

わたしたちはカーテンが良いのか、それとももっと貧乏な施設を探して、何か違うものをあげたらいいのか考えた。ちょっと中を見せてもらった。

ここはキッチン。やっぱりまだガスはなくて、木の枝を燃やして料理している。



ここは保健室だというけど、ここにもカーテンが無いのはどうかなあ。
上のは蚊をよけるためのネットだよ!


ここの先生や経営をする人たちもすごく理解のできる人たちで、わたしたちに
もっと他の貧しい人たちに何かしたいなら、気にしないで下さいと言ってくれた。
だけど、陽子ちゃんとわたしは何かここが気に入ってしまって、せっかく
れいこちゃんやいろいろここに縁があったところだからといって、ここに
カーテンを作ってあげることにした。

その後すぐに先生と近くのカーテンやさんにいって話をした。


先生は、真ん中のピンクのテディベアのカーテンをえらんだ。
陽子ちゃんは小さい声でうへーといった。


そのあと、また先生を孤児院に送って、記念写真をとった。


ほんとはもっと時間があったら、ここにも何日かとまって、おいしいと言われている
ご飯もたくさん食べて、子供たちと一緒に遊んだらよかったと思った。
でも今回の滞在はいろいろあって時間がなかった。
かえるとき、みんな笑顔で送ってくれた。後ろに日本人の男の先生がいるでしょ!


家に帰るときは、もう夜になっていた。クルネーガラの山の仏陀の像の上に
月がきれいに光っていた。わたしたちは何か安心した気分になった。


あの孤児院の子供たちは、最初すごく綺麗な施設で、良い先生たちに教えてもらって
幸せだと思った。わたしが子供のころに住んでいたのは、馬小屋みたいな草と土で
出来た家だったから。あの子供たちは毎日おなかいっぱいご飯も食べれて幸せだと思った。だけど、よく考えてみたら、いくら綺麗な家においしいご飯があっても、お母さんやお父さんはいない。笑顔で過ごしていたけど、ほんとうのところはどうかわからない。あの綺麗な孤児院からちょっと外にでると、道ではお母さんと楽しそうに歩いている子供にすぐ出会う。そのとき、ああ私にはこういう幸せはもう無いと思うにちがうない。わたしはお母さんが亡くなった今、やっとその気持ちが理解できるようになった。
あの先生たちは本当に良いひとたちだけど、やっぱりお母さんという人は
自分の命なんかより、子供を1番に考えてくれて、こどものためなら
どんなことでも頑張ろうとしてくれる。そういう心から甘えたり頼ったりできる存在は
いないんだなあと思うと、やっぱりわたしはどんなに貧乏でも子供のとき
お母さんと一緒に暮らすことが出来て幸せだったと思った。
だから、今、お母さんはいなくなったけど、何かそういう子供たちのために
少しでも出来ることがあってよかったと思った。


それで、最近あの孤児院の先生から、カーテンがついたとメールが届いたよ!
ここはエントランスのところ。陽子ちゃんはぜんぶ熊じゃなくてよかったといった。


ここは食堂。ピンクの壁にカーテンがあっているね!


これは子供たちの部屋。陽子ちゃんはここは何で水色熊にしちゃったかなあと言った!


まぁ、でも外を気にして着替えることはなくなったし、何だか虹色みたいで明るい感じになってよかったでしょ!きっとここの子供たちはすごい良い環境で、とても良い教育も受けているから、大きくなったらいろいろ人を助けてあげられる人になるでしょ!
明るい未来がくるといいね!


そうだ、この孤児院の資金は、この本を売った利益でつくったんだって。
わたしたちも1冊買わせてもらった。内容はみんな頑張ったらできるよ!という話。
この絵はここの子供たちが書いた。良かったら買って読んであげて。
クリックしたら、スプートニクの人が書いたブログ。ちょっとはずかしいけど、10月22日の
ブログに、わたしたちのことも書いてあった!



今日も長くなっちゃったけど、ここまで読んでくれてありがとうございました。
これをどうしても先に書きたかったのは、この孤児院にあげたカーテン代は
わたしたちのお金だけじゃなくて、前からお客さんがスリランカで誰か困っている
ひとのためにともらっていた募金も助けてくれたからだ。
そういう温かい気持ちをもったお客さんの応援のおかげで、こういうことが出来て
本当に感謝している。募金をしようと思ったら、アフリカの子供たちでもいくらでも
できるところはあるけど、わたしたちを信じてくれたのが本当に感謝しないと
いけないことだと思っている。どうもありがとうございました。

それと、この旅行をおわったあと、募金できなかったからといって
最近、あるお客さんがまた大きな募金をくれました。
それはスリランカのことだけじゃなくて、なんでも使ってくださいということだったから、陽子ちゃんは昔からやっていた活動に募金をすることにした。
それは中国のハンセン病の回復村の活動のことだけど。それは長くなるからまた今度かくことにするよ。だけど、年末の忙しい時期に、家族のお世話とか仕事とかいろいろ忙しくて、お金もそんなに余裕がないときなのに、世界で困っている自分じゃない人のことを考えて、なにかできないかと思ってくれる人がいるというのは、日本はやっぱり仏教の助け合いの心がある良い国だと思った。わたしは日本に来なかったら、
そういう出会いは無かったと思うし、そういう人がわたしのお店のお客さんで、
いろいろ勉強をすることが出来て感謝している。
本当にどうもありがとうございました。

お金のことだけじゃなくても、きっとこのブログを読んでくれている人たちは
いつもの生活の中のちいさいところでも、まわりの人たちを助けてあげるような
ピュア気持ちをもった人たちばかりだと思う。
そういう人が出来るだけ、生活がスムーズにできて心がいつも平和で
いつも笑いがたくさんある明るい人生になったらいいといつも願っている。

これから日本はどんどん寒くなるけど、心は負けないで強く
いろいろ元気に頑張れたらいいね。忙しい時期だからけがに気をつけてね。
ありがとうございました。



スポンサーサイト

お母さん

皆さん、こんにちは!
今日もみに来てもらって、どうもありがとうございます。
帰国してから、すぐに書きたかったんだけど、発送ことや新しい石のこと、
それと、わたしの人生の状況もいろいろ変わって、すごく忙しかったからだ。
やっと最近、状況が落ち着いて、わたしも書くことができるようになった。

実は、今回のスリランカの旅行は本当にいろいろなことがあった。
それは本当は書かないようにしようかと思ったけど、真実を話すことが
何かのためになればいいなあと思って書くことにした。

今回スリランカに行ったのは、すごく急のことのように見えたかもしれないけど
わたしはもうずっと前から、少しずつ覚悟をきめていた。
なんのことかというと、「お母さん」のことだ。

実はわたしのお母さんは、わたしが子供の頃から肺の病気を持っていた。
スリランカは、ご飯を作るとき、ガスはまだ無かったから、木の枝をいっぱい
集めて、それを燃やしてご飯を作る。ただの木の枝ならまだ良かったかも
しれないけど、スリランカではゴミを集めるシステムが発達していないし、
雨のシーズンには落ちている木の枝やココナツのからも、水に濡れて
燃やせないから、時々そこらへんに落ちているビニルの袋とか、なんでも
燃えるものをリッパの中に入れて、燃やしてご飯をつくっていた。
その煙はとても体に悪くて、スリランカでは日本語で、肺気腫という病気に
なってしまう女性がすごくたくさんいる。

わたしのお母さんも、そういう理由でわたしが子供の頃から肺の病気で
わたしが小さい頃に肺を何分の1かとるくらいの手術もしていた。
でも、ずっとせきをしながらでも、頑張ってわたしたちを育ててくれた。
わたしがいろいろわかるようになった頃は、お母さんはあんまり長く
生きることはできないだろうといわれていた。
わたしが大人になって、お母さんにアパラムッダを着けてもらったり、
いろいろお払いをしてもらったりした。ホロスコープには
病気は良くならないと書いてあったし、このカルマは逃れることは出来ない
みたいに書いてあったけど、それでも少しでも長く生きてくれたらいいと
思って、少し良い病院で治療をしてもらったり、いろいろ出来ることをやっていた。
2~3年前に一度入院したとき、もう助からない状況もあったけど、
わたしと陽子ちゃんは、日本からも頑張ってパワーを送ったり頑張って
命を延ばすことができた。

わたしたちがスリランカに行ったときは、お母さんの体調が良いときは
一緒にカタラガマという有名なヒンドゥー神様のお寺を回る旅にもいけたし
キャンディの仏陀の歯がおいてあるお寺にも旅行に行くことも出来た。
だけど、この1~2年は病気が進んで、大変になっていた。
肺気腫という病気は、科学が進んだ日本でも治すことが出来ない病気と言われている。
でも日本は、呼吸が楽にできるように、酸素ボンベを持って、呼吸をしやすいようにすることができるマシーンもレンタルしているから、日本人の人がその病気になってもすぐに亡くなることはない。だけど、スリランカはまだ遅れているところがあるから
長く生きるチャンスが無い。わたしたちは、何とか日本に連れてきて治療ができるかとかいろいろ調べてみたけど、お母さんはスリランカから離れることは希望していないし
日本に治療のためにつれてくるのは難しかった。

今回スリランカに行った9月27日の二週間くらい前、あるお客さんが
今度スリランカに行ったら、パパラチアサファイアを買ってきて下さいと
お願いをしてくれた。パパラチアサファイアは、日本でも入手できるけど
その人は、陽子ちゃんに綺麗な色のパパラチアを選んでほしいというお願いだったからだ。わたしは、もうそろそろ行かなくちゃいけないことになると思っていた。

9月23日頃、お母さんがまた入院したという知らせをもらった。
わたしたちは、今回はもう本当にどうなるかわからないとわかっていたから
もう時間が無いと思って、26日のチケットをとってすぐにスリランカに出発した。
あのお客さんのお願いのパパラチアサファイアも買ってこないと!!!
出発の飛行機の中は、わたしは帰国するときの飛行機の中は、
どんな状況になっているだろう???と心配をしていた。
お母さんは、もう亡くなってしまうんだろうか。それともわたしたちがいる間に
亡くならないでも、あとで亡くなってもお葬式にすぐに行くことができなくなる。
生きていてほしい気持ちもあるけど、もうお母さんのカルマが終わるなら
お母さんをしっかり長男のわたしがお葬式をやってあげて、しっかり
次の人生に行けるように、整えてあげたいという気持ちもあった。
でも、やっぱりお母さんと一生話ができなくなるのはなんて寂しいなあと
思って、いろいろ考えて飛行機の中で不安になっていた。
出発の日、当日にわたしたちの家の時計が2個止まった。
そして、この飛行機の中でわたしの腕時計も止まっていた。
何かやっぱりあるんじゃないかという気持ちは消せなかった。

でも、そうしたとき陽子ちゃんがプラちゃんは仏陀に守られているから
ちゃんとしっかりした運命が待っているからと言ってくれた。

スリランカに着いた。次の日病院へ行ってみると、お母さんはICUの治療室にいた。
お母さんは、頭を横に振ったりすることしかできなくなっていた。
つい何日か前に、わたしは電話でお母さんと話したばっかりだったけど、
お母さんはその時、もうずいぶん無理をしていたみたいだった。
スリランカは、日本のように健康保険の制度がなくて、
病院は公立の病院はみんな無料だけど、設備がしっかりない。
だから、少しお金がある人は私立の病院に行って、高い治療費を払って
治療をしてもらう。わたしはお母さんを私立の病院に行かせていたから
お母さんは、毎回治療費のことを心配していたという。
わたしたちが2万3万というと、日本ではそこまで大金じゃないけど、
スリランカでは一ヶ月働いたお給料よりも高いから、お母さんは
わたしや陽子ちゃんに迷惑がかかると心配して、
悪くなってもなかなか病院にすぐに行かなかったという。
わたしはそういうことは気にしないでとお母さんに言っていたけど
やっぱり昔からとても貧乏な生活をしていた国だから
そう言っても、わたしたちを心配しちゃっていたという。
だから、何日か前、わたしがお母さんの携帯に電話をしたとき
本当はとても苦しかったかもしれないのに、頑張ってわたしに
話してくれたんだと思った。お母さんはいつもそういう人だったからだ。
どんなに具合が悪くても、いつも笑顔で笑っていて、誰の悪口も
いわないで、みんなを助けてあげている人だった。
最後に入院したときも、おばあちゃんや親戚のひとが何回も説得をして、
やっと行ったという。

わたしがスリランカに着いたのは26日で、わたしの叔母さんのレーヌカさんも
日本から30日にスリランカに来ることになっていた。
陽子ちゃんは、お母さんはレーヌカさんが来るまできっと生きているだろうと言った。
わたしたちは毎日、お母さんの病院にいってお母さんに話しかけた。
もう長くないとわかった。陽子ちゃんはお母さんにプラちゃんを生んでくれて
わたしにくれてありがとう。と言った。
30日の夜、レーヌカさんはスリランカに着いて、次の日10月1日、
病院へ行った。お母さんは、その日の午後5時頃、亡くなった。
やっぱり、ちゃんとレーヌカさんが来るのを待っていたんだね。
亡くなったとき、わたしはその時少し泣いちゃったけど、
それから、お葬式やさんのところへ行って、いろいろやらないといけないことも
あったし、日本のお葬式のようじゃなくて、スリランカはすごくすごくお葬式で
やることがいっぱいあるから、わたしたちはそれから7日間動いて動いて
ゆっくり泣くことも出来なかった。

家に連れてきたお母さん。白いサーリを着て最後は綺麗だった。



いつも仲良くしているお坊さんは、他のお坊さんよりも早く来てくれた。


日本のお葬式は、お葬式に着てくれた人にご飯をあげても、それはどこかのお店が
作って持ってきてくれるでしょう。スリランカでは、お葬式をやった家の人や周りの家の人がご飯を何百人分もつくって、お葬式に着てくれた人にあげるんだよ。
それが亡くなった人のピンという功徳になって、亡くなった人がもっと良いところに
生まれることができるというからだ。

だから、わたしたちはお葬式のプランを決めたあと、みんなで野菜のマーケットに行って、新鮮な野菜や果物を何十キロも買ってこないといけない。
みんなでわいわい車でマーケットに行って野菜を選んだりしているうちに、
いつの間にかお母さんが亡くなった悲しさや寂しさは忘れて、
楽しくなっていることもあった。

わたしのひじくらい大きいゴーヤ!寝ていないから顔は疲れけど。


お母さんの妹のレーヌカさん。この人がいるとすごく明るくなる!


でも、ちょっとでも時間が出来て、置いてあるお母さんの遺体をじっと見ていると、
やっぱりどんどん涙が出てきた。スリランカではお母さんを「アンマー」というけど、
わたしはもう誰をアンマーと呼ぶの、と思うと寂しくて仕方なかった。
お母さんを火葬場に持っていくとき、最後に顔を見たときは、もう会えないと思うと
やっぱり、どうしようもなく寂しくて、泣いちゃった。

火葬場にいくバスの中から撮った写真だよ。
この日は雨で、お母さんが乗っている車をお父さんが追いかけている


陽子ちゃんは、なんだかんだ言って、わたしよりずっといっぱい泣いていた。
お母さんは病院でピアスをとらなきゃいけなかったのか、
お母さんの耳にはピアスが無かった。
陽子ちゃんは火葬場で、お母さんに最後のお別れをするとき、ピアスがないと
あっちにいって笑われるでしょうと言って、自分の耳についていた
ダイヤモンドのピアスを取って、お母さんの耳に着けてあげた。
あれはすごくお母さんに似合って、キラキラ輝いて綺麗だなあと思った。

それから亡くなった7日目の夜まで、わたしたちは7人のお坊さんにあげるご飯や、お葬式に来てくれる人にあげるご飯をずっと作り続けないといけなかった。お坊さんが来るのは1日だけじゃないし、何回も来るから、わたしは車で迎えにいったり、寝る時間も毎日2~3時間しかできないし、毎日あっちこっちいってすごく大変だった。陽子ちゃんはスリランカのお葬式、めっちゃしんどいって何度も何度も言っていたよ。

みんなにあげる料理の種類。この料理を何回も大きななべで作ったよ。


だけど、親戚や近所の人たちみんなで、ご飯をつくったり、何日も一緒になって
いろいろ仕事をしていると、お母さんが亡くなった悲しみは、みんなで一緒に
共有して消化していくみたいに、体はすごく疲れるけど、気持ちは少しずつ
落ち着いていくことができた。これがスリランカの伝統の良いところなんだねと
陽子ちゃんが言ってくれた。


お葬式が終わったあと、わたしたちはお母さんのためにスリランカの仏教の
聖地のアノラーダプラというところをまわって旅をすることにした。

有名なルワンウェリサーヤというスリランカで最大級のステューパ。


パパラチアサファイアも探しに行った。
この写真は何かというと・・・パパラチアを探す旅で泊まった綺麗なホテル!


ピュアなパパラチアサファイア!!!左下のラウンドは普通のピンクサファイア4mm。
オレンジが入ったパパラチアの色の違いがわかるでしょう!



何かアーダーラをしようと決めていた。アーダーラは、募金のようなもので
困っている人たちに何かをあげたり、助けてあげることだ。
陽子ちゃんは、どうしても行きたいところがあると言って、
クルネーガラにある女の子だけの孤児院に行った。
孤児院は子供たちがすごくかわいくて、わたしたちはもし子供が出来なかったら
こういう子供を何人かもらって、育てようねと話した。

これは孤児院のみんな。女の子が陽子ちゃんの手をつないだ。ここのお話はまた今度!
コピー ~ IMG_9380



それから何日かして、陽子ちゃんはある夜、吐き気が止まらなくなった。
ちょっと前から陽子ちゃんは、30過ぎてからの途上国はつらいわあと言って
アノラーダプラの暑いところで、いろいろ歩かないといけないのに
歩けなくなったり疲れやすかったりしたんだけど。
それで前も少し気持ち悪くなったときがあったけど、みんな陽子ちゃんが揚げ物を
食べすぎて、気持ち悪くなったね~と笑っていたんだよ。
だけど、この夜は吐き気がすごいから、朝になるのを待って村の病院へ行った。
その病院は、陽子ちゃんがピアスの穴をあけてもらった病院だ。
先生は、ピアスをもって、エイ!と何もマシンも使わないで穴をあけたから
陽子ちゃんはギャーとさわいだんだよ。
だから、あの先生はすごく陽子ちゃんのこと、覚えていて、
朝6時で起こしちゃったのに、ニコニコ笑って対応してくれた。
吐き気がすごいと言ったら、すぐにわたしたちを見て
「プリグナンス」と言った。
英語で妊娠のことをいうから、わたしたちは「えええーーーー!!」と驚いちゃった!
信じられなかったけど、陽子ちゃんは本当に妊娠していた。
その日の夜、陽子ちゃんはお母さんに電話をしたら、「妊娠してると思った。
あたしの夢の中におもながの顔の青年が現れたんよ。なーんか陽子に
似てるようなプラちゃんに似てるようなとおもうたんよ」と言った。

日本に帰ってきて、病院へ行ったら、わたしは陽子ちゃんのお腹の中で、
手をバタバタ動かしている小さい赤ちゃんが見えた!!!
わたしたちはびっくりしたけど、やっぱり何か人生ですごく大きな贈り物を
どーんともらったみたいに嬉しくなっちゃった。

陽子ちゃんはそれから毎日、夜になるとすごい吐き気がして
すごく苦しそうになっている。昼は結構大丈夫だから、お客さんとのメールも
やっているんだけど、夜は大変だから、わたしは陽子ちゃんが少しでも
休めるように、いろいろ料理をつくったり、せんたくや掃除を手伝っている。
陽子ちゃんは「あたしはまだ軽いほうなんだよ」というけど、でも、
毎日すごく苦しそうで、可愛そうになってしまう。
でも、苦しそうに吐いている陽子ちゃんを見ていると、わたしは自分のお母さんが
わたしを生むときも、何ヶ月もこんな風に苦しくなって頑張って
わたしを生んでくれたんだなあと思うと、ありがたくて、だけど
こんなに大変だったのを知らなかったから、生きているときにそういう話を
したこともなかったし、聞いたこともなかった。今やっと、わかって
いろいろお母さんに話したいけど、わたしを生んでくれてありがとうと、
お母さんに生きているときに言ったこともあったけど、こんなに苦しいとは
本当にわからなかった。今、やっとわかって、わたしを生んだときは
どうだったの、どういう気持ちだったの、本当に心からのありがとうを
言いたいけどもう話すことができない。
寂しくなって、今でも少し涙が出ることがある。

だけど、不思議なのは、お母さんが亡くなって、悲しくてたまらなくて
いつでも泣いていたい気持ちがあるはずだけど、わたしは今、帰国しても
笑っていることが多いということだ。
「どうして?」って陽子ちゃんに聞いたら、「プラちゃん、それは人間が苦しみや
悲しみを乗り越えるために、ただ一つ、人間に与えられた能力のおかげなんだよ。
人間は忘れるという能力が与えられているから、どんなにつらいことがあっても
一時的にそれを忘れて、違うことができたり、笑ったりもすることができるんだよ」
と教えてくれた。確かにそうだと思った。忘れることは出来ないけど、
仕事をしたり、何か違うことを考えていると、一時的に忘れることが出来て、
だんだんその苦しみが薄くなっていくんだと思った。

お母さんがいなくなった悲しさはあるけど、お母さんをもう病気という
人生の苦しみから解放させてあげることができた。すばらしいお坊さんに
きてもらって、ちゃんとお母さんを新しい人生にいけるように送ることが出来た。
お母さんがいないという寂しさはあるけど、わたしの近くには今度は
陽子ちゃんが「お母さん」になって、新しい命がきた。
わたしたちは今まで子供を計画的につくろうとしたことも無かったし、
自然にまかせていたんだけど、お母さんが亡くなったこのタイミングで
新しい魂が入って、陽子ちゃんがお母さんになったのは何か不思議な
運命じゃないかと思う。陽子ちゃんは「不思議じゃなくて、だから必然」
というけど。今まで、わたしはブログでも言ったことがあるけど、
わたしのお店のお客さんは、子供が出来なくて悩んでいる人もいたから
子供が出来てもここで話さないようにしようと言っていた。
だけど、ここで話そうと決めたのは、何か運命みたいな決まっているものが
あって、子供ができるのはそういう運命で、子供ができないのはそういう運命
なんじゃないかと思ったからだ。わたしたちは自分達の子供が出来なかったら
両親のいない子供をもらって、育てようと思っていたからだ。
どっちにしても、それはわたしたちの人生で、どっちになるからと言って
それが幸せになるか、不幸になるかということじゃないと思った。
心の持ち方で、子供がいない人生で夫婦二人で楽しく暮らすこともできるし
自分の子供を育てても平和に楽しくできるし、自分の子供じゃない子供を
もらって育てても、幸せな家庭を作ることができるんじゃないかと思ったからだ。
結局、すべては、自分たちの人生で、与えられた環境の中で、
不平や不満ことを言わないで、責任を持って自分で選んでいくことで、
幸せだなあと感じる人生にすることができると思った。

今回のスリランカ滞在ことは、今日1日のブログじゃ全然書けないから
サマリーみたいに今日は大きなことを書いたよ。
これからゆっくり、一つ一つトピックを書いていこうと思う。
今日まで、書くのに時間がかかっちゃって、毎日見に来てくれた人がいたら
ごめんなさい。これからも、いろいろお手伝いをしながらだから
少し遅れることもあると思うけど、頑張って続けていくので、
どうか宜しくお願いします。

皆さんも人生できっといろいろ苦しいことや、お別れを経験したりすることも
あると思うけど、心の持ち方をいろいろ角度をかえて、調整して
だんだん笑顔が多くなるように頑張ってください!!
今、とても幸せなひとは、それを他のひとにもあげられるといいね。

じゃあ、冬になっていくから、体に気をつけようね!!!
ありがとうございました。

FC2Ad