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プラちゃんの部屋~変てこスリランカ人留学生(だった)奮闘記~

漢字間違えてても言葉変でも気にしないでね~

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お母さん

皆さん、こんにちは!
今日もみに来てもらって、どうもありがとうございます。
帰国してから、すぐに書きたかったんだけど、発送ことや新しい石のこと、
それと、わたしの人生の状況もいろいろ変わって、すごく忙しかったからだ。
やっと最近、状況が落ち着いて、わたしも書くことができるようになった。

実は、今回のスリランカの旅行は本当にいろいろなことがあった。
それは本当は書かないようにしようかと思ったけど、真実を話すことが
何かのためになればいいなあと思って書くことにした。

今回スリランカに行ったのは、すごく急のことのように見えたかもしれないけど
わたしはもうずっと前から、少しずつ覚悟をきめていた。
なんのことかというと、「お母さん」のことだ。

実はわたしのお母さんは、わたしが子供の頃から肺の病気を持っていた。
スリランカは、ご飯を作るとき、ガスはまだ無かったから、木の枝をいっぱい
集めて、それを燃やしてご飯を作る。ただの木の枝ならまだ良かったかも
しれないけど、スリランカではゴミを集めるシステムが発達していないし、
雨のシーズンには落ちている木の枝やココナツのからも、水に濡れて
燃やせないから、時々そこらへんに落ちているビニルの袋とか、なんでも
燃えるものをリッパの中に入れて、燃やしてご飯をつくっていた。
その煙はとても体に悪くて、スリランカでは日本語で、肺気腫という病気に
なってしまう女性がすごくたくさんいる。

わたしのお母さんも、そういう理由でわたしが子供の頃から肺の病気で
わたしが小さい頃に肺を何分の1かとるくらいの手術もしていた。
でも、ずっとせきをしながらでも、頑張ってわたしたちを育ててくれた。
わたしがいろいろわかるようになった頃は、お母さんはあんまり長く
生きることはできないだろうといわれていた。
わたしが大人になって、お母さんにアパラムッダを着けてもらったり、
いろいろお払いをしてもらったりした。ホロスコープには
病気は良くならないと書いてあったし、このカルマは逃れることは出来ない
みたいに書いてあったけど、それでも少しでも長く生きてくれたらいいと
思って、少し良い病院で治療をしてもらったり、いろいろ出来ることをやっていた。
2~3年前に一度入院したとき、もう助からない状況もあったけど、
わたしと陽子ちゃんは、日本からも頑張ってパワーを送ったり頑張って
命を延ばすことができた。

わたしたちがスリランカに行ったときは、お母さんの体調が良いときは
一緒にカタラガマという有名なヒンドゥー神様のお寺を回る旅にもいけたし
キャンディの仏陀の歯がおいてあるお寺にも旅行に行くことも出来た。
だけど、この1~2年は病気が進んで、大変になっていた。
肺気腫という病気は、科学が進んだ日本でも治すことが出来ない病気と言われている。
でも日本は、呼吸が楽にできるように、酸素ボンベを持って、呼吸をしやすいようにすることができるマシーンもレンタルしているから、日本人の人がその病気になってもすぐに亡くなることはない。だけど、スリランカはまだ遅れているところがあるから
長く生きるチャンスが無い。わたしたちは、何とか日本に連れてきて治療ができるかとかいろいろ調べてみたけど、お母さんはスリランカから離れることは希望していないし
日本に治療のためにつれてくるのは難しかった。

今回スリランカに行った9月27日の二週間くらい前、あるお客さんが
今度スリランカに行ったら、パパラチアサファイアを買ってきて下さいと
お願いをしてくれた。パパラチアサファイアは、日本でも入手できるけど
その人は、陽子ちゃんに綺麗な色のパパラチアを選んでほしいというお願いだったからだ。わたしは、もうそろそろ行かなくちゃいけないことになると思っていた。

9月23日頃、お母さんがまた入院したという知らせをもらった。
わたしたちは、今回はもう本当にどうなるかわからないとわかっていたから
もう時間が無いと思って、26日のチケットをとってすぐにスリランカに出発した。
あのお客さんのお願いのパパラチアサファイアも買ってこないと!!!
出発の飛行機の中は、わたしは帰国するときの飛行機の中は、
どんな状況になっているだろう???と心配をしていた。
お母さんは、もう亡くなってしまうんだろうか。それともわたしたちがいる間に
亡くならないでも、あとで亡くなってもお葬式にすぐに行くことができなくなる。
生きていてほしい気持ちもあるけど、もうお母さんのカルマが終わるなら
お母さんをしっかり長男のわたしがお葬式をやってあげて、しっかり
次の人生に行けるように、整えてあげたいという気持ちもあった。
でも、やっぱりお母さんと一生話ができなくなるのはなんて寂しいなあと
思って、いろいろ考えて飛行機の中で不安になっていた。
出発の日、当日にわたしたちの家の時計が2個止まった。
そして、この飛行機の中でわたしの腕時計も止まっていた。
何かやっぱりあるんじゃないかという気持ちは消せなかった。

でも、そうしたとき陽子ちゃんがプラちゃんは仏陀に守られているから
ちゃんとしっかりした運命が待っているからと言ってくれた。

スリランカに着いた。次の日病院へ行ってみると、お母さんはICUの治療室にいた。
お母さんは、頭を横に振ったりすることしかできなくなっていた。
つい何日か前に、わたしは電話でお母さんと話したばっかりだったけど、
お母さんはその時、もうずいぶん無理をしていたみたいだった。
スリランカは、日本のように健康保険の制度がなくて、
病院は公立の病院はみんな無料だけど、設備がしっかりない。
だから、少しお金がある人は私立の病院に行って、高い治療費を払って
治療をしてもらう。わたしはお母さんを私立の病院に行かせていたから
お母さんは、毎回治療費のことを心配していたという。
わたしたちが2万3万というと、日本ではそこまで大金じゃないけど、
スリランカでは一ヶ月働いたお給料よりも高いから、お母さんは
わたしや陽子ちゃんに迷惑がかかると心配して、
悪くなってもなかなか病院にすぐに行かなかったという。
わたしはそういうことは気にしないでとお母さんに言っていたけど
やっぱり昔からとても貧乏な生活をしていた国だから
そう言っても、わたしたちを心配しちゃっていたという。
だから、何日か前、わたしがお母さんの携帯に電話をしたとき
本当はとても苦しかったかもしれないのに、頑張ってわたしに
話してくれたんだと思った。お母さんはいつもそういう人だったからだ。
どんなに具合が悪くても、いつも笑顔で笑っていて、誰の悪口も
いわないで、みんなを助けてあげている人だった。
最後に入院したときも、おばあちゃんや親戚のひとが何回も説得をして、
やっと行ったという。

わたしがスリランカに着いたのは26日で、わたしの叔母さんのレーヌカさんも
日本から30日にスリランカに来ることになっていた。
陽子ちゃんは、お母さんはレーヌカさんが来るまできっと生きているだろうと言った。
わたしたちは毎日、お母さんの病院にいってお母さんに話しかけた。
もう長くないとわかった。陽子ちゃんはお母さんにプラちゃんを生んでくれて
わたしにくれてありがとう。と言った。
30日の夜、レーヌカさんはスリランカに着いて、次の日10月1日、
病院へ行った。お母さんは、その日の午後5時頃、亡くなった。
やっぱり、ちゃんとレーヌカさんが来るのを待っていたんだね。
亡くなったとき、わたしはその時少し泣いちゃったけど、
それから、お葬式やさんのところへ行って、いろいろやらないといけないことも
あったし、日本のお葬式のようじゃなくて、スリランカはすごくすごくお葬式で
やることがいっぱいあるから、わたしたちはそれから7日間動いて動いて
ゆっくり泣くことも出来なかった。

家に連れてきたお母さん。白いサーリを着て最後は綺麗だった。



いつも仲良くしているお坊さんは、他のお坊さんよりも早く来てくれた。


日本のお葬式は、お葬式に着てくれた人にご飯をあげても、それはどこかのお店が
作って持ってきてくれるでしょう。スリランカでは、お葬式をやった家の人や周りの家の人がご飯を何百人分もつくって、お葬式に着てくれた人にあげるんだよ。
それが亡くなった人のピンという功徳になって、亡くなった人がもっと良いところに
生まれることができるというからだ。

だから、わたしたちはお葬式のプランを決めたあと、みんなで野菜のマーケットに行って、新鮮な野菜や果物を何十キロも買ってこないといけない。
みんなでわいわい車でマーケットに行って野菜を選んだりしているうちに、
いつの間にかお母さんが亡くなった悲しさや寂しさは忘れて、
楽しくなっていることもあった。

わたしのひじくらい大きいゴーヤ!寝ていないから顔は疲れけど。


お母さんの妹のレーヌカさん。この人がいるとすごく明るくなる!


でも、ちょっとでも時間が出来て、置いてあるお母さんの遺体をじっと見ていると、
やっぱりどんどん涙が出てきた。スリランカではお母さんを「アンマー」というけど、
わたしはもう誰をアンマーと呼ぶの、と思うと寂しくて仕方なかった。
お母さんを火葬場に持っていくとき、最後に顔を見たときは、もう会えないと思うと
やっぱり、どうしようもなく寂しくて、泣いちゃった。

火葬場にいくバスの中から撮った写真だよ。
この日は雨で、お母さんが乗っている車をお父さんが追いかけている


陽子ちゃんは、なんだかんだ言って、わたしよりずっといっぱい泣いていた。
お母さんは病院でピアスをとらなきゃいけなかったのか、
お母さんの耳にはピアスが無かった。
陽子ちゃんは火葬場で、お母さんに最後のお別れをするとき、ピアスがないと
あっちにいって笑われるでしょうと言って、自分の耳についていた
ダイヤモンドのピアスを取って、お母さんの耳に着けてあげた。
あれはすごくお母さんに似合って、キラキラ輝いて綺麗だなあと思った。

それから亡くなった7日目の夜まで、わたしたちは7人のお坊さんにあげるご飯や、お葬式に来てくれる人にあげるご飯をずっと作り続けないといけなかった。お坊さんが来るのは1日だけじゃないし、何回も来るから、わたしは車で迎えにいったり、寝る時間も毎日2~3時間しかできないし、毎日あっちこっちいってすごく大変だった。陽子ちゃんはスリランカのお葬式、めっちゃしんどいって何度も何度も言っていたよ。

みんなにあげる料理の種類。この料理を何回も大きななべで作ったよ。


だけど、親戚や近所の人たちみんなで、ご飯をつくったり、何日も一緒になって
いろいろ仕事をしていると、お母さんが亡くなった悲しみは、みんなで一緒に
共有して消化していくみたいに、体はすごく疲れるけど、気持ちは少しずつ
落ち着いていくことができた。これがスリランカの伝統の良いところなんだねと
陽子ちゃんが言ってくれた。


お葬式が終わったあと、わたしたちはお母さんのためにスリランカの仏教の
聖地のアノラーダプラというところをまわって旅をすることにした。

有名なルワンウェリサーヤというスリランカで最大級のステューパ。


パパラチアサファイアも探しに行った。
この写真は何かというと・・・パパラチアを探す旅で泊まった綺麗なホテル!


ピュアなパパラチアサファイア!!!左下のラウンドは普通のピンクサファイア4mm。
オレンジが入ったパパラチアの色の違いがわかるでしょう!



何かアーダーラをしようと決めていた。アーダーラは、募金のようなもので
困っている人たちに何かをあげたり、助けてあげることだ。
陽子ちゃんは、どうしても行きたいところがあると言って、
クルネーガラにある女の子だけの孤児院に行った。
孤児院は子供たちがすごくかわいくて、わたしたちはもし子供が出来なかったら
こういう子供を何人かもらって、育てようねと話した。

これは孤児院のみんな。女の子が陽子ちゃんの手をつないだ。ここのお話はまた今度!
コピー ~ IMG_9380



それから何日かして、陽子ちゃんはある夜、吐き気が止まらなくなった。
ちょっと前から陽子ちゃんは、30過ぎてからの途上国はつらいわあと言って
アノラーダプラの暑いところで、いろいろ歩かないといけないのに
歩けなくなったり疲れやすかったりしたんだけど。
それで前も少し気持ち悪くなったときがあったけど、みんな陽子ちゃんが揚げ物を
食べすぎて、気持ち悪くなったね~と笑っていたんだよ。
だけど、この夜は吐き気がすごいから、朝になるのを待って村の病院へ行った。
その病院は、陽子ちゃんがピアスの穴をあけてもらった病院だ。
先生は、ピアスをもって、エイ!と何もマシンも使わないで穴をあけたから
陽子ちゃんはギャーとさわいだんだよ。
だから、あの先生はすごく陽子ちゃんのこと、覚えていて、
朝6時で起こしちゃったのに、ニコニコ笑って対応してくれた。
吐き気がすごいと言ったら、すぐにわたしたちを見て
「プリグナンス」と言った。
英語で妊娠のことをいうから、わたしたちは「えええーーーー!!」と驚いちゃった!
信じられなかったけど、陽子ちゃんは本当に妊娠していた。
その日の夜、陽子ちゃんはお母さんに電話をしたら、「妊娠してると思った。
あたしの夢の中におもながの顔の青年が現れたんよ。なーんか陽子に
似てるようなプラちゃんに似てるようなとおもうたんよ」と言った。

日本に帰ってきて、病院へ行ったら、わたしは陽子ちゃんのお腹の中で、
手をバタバタ動かしている小さい赤ちゃんが見えた!!!
わたしたちはびっくりしたけど、やっぱり何か人生ですごく大きな贈り物を
どーんともらったみたいに嬉しくなっちゃった。

陽子ちゃんはそれから毎日、夜になるとすごい吐き気がして
すごく苦しそうになっている。昼は結構大丈夫だから、お客さんとのメールも
やっているんだけど、夜は大変だから、わたしは陽子ちゃんが少しでも
休めるように、いろいろ料理をつくったり、せんたくや掃除を手伝っている。
陽子ちゃんは「あたしはまだ軽いほうなんだよ」というけど、でも、
毎日すごく苦しそうで、可愛そうになってしまう。
でも、苦しそうに吐いている陽子ちゃんを見ていると、わたしは自分のお母さんが
わたしを生むときも、何ヶ月もこんな風に苦しくなって頑張って
わたしを生んでくれたんだなあと思うと、ありがたくて、だけど
こんなに大変だったのを知らなかったから、生きているときにそういう話を
したこともなかったし、聞いたこともなかった。今やっと、わかって
いろいろお母さんに話したいけど、わたしを生んでくれてありがとうと、
お母さんに生きているときに言ったこともあったけど、こんなに苦しいとは
本当にわからなかった。今、やっとわかって、わたしを生んだときは
どうだったの、どういう気持ちだったの、本当に心からのありがとうを
言いたいけどもう話すことができない。
寂しくなって、今でも少し涙が出ることがある。

だけど、不思議なのは、お母さんが亡くなって、悲しくてたまらなくて
いつでも泣いていたい気持ちがあるはずだけど、わたしは今、帰国しても
笑っていることが多いということだ。
「どうして?」って陽子ちゃんに聞いたら、「プラちゃん、それは人間が苦しみや
悲しみを乗り越えるために、ただ一つ、人間に与えられた能力のおかげなんだよ。
人間は忘れるという能力が与えられているから、どんなにつらいことがあっても
一時的にそれを忘れて、違うことができたり、笑ったりもすることができるんだよ」
と教えてくれた。確かにそうだと思った。忘れることは出来ないけど、
仕事をしたり、何か違うことを考えていると、一時的に忘れることが出来て、
だんだんその苦しみが薄くなっていくんだと思った。

お母さんがいなくなった悲しさはあるけど、お母さんをもう病気という
人生の苦しみから解放させてあげることができた。すばらしいお坊さんに
きてもらって、ちゃんとお母さんを新しい人生にいけるように送ることが出来た。
お母さんがいないという寂しさはあるけど、わたしの近くには今度は
陽子ちゃんが「お母さん」になって、新しい命がきた。
わたしたちは今まで子供を計画的につくろうとしたことも無かったし、
自然にまかせていたんだけど、お母さんが亡くなったこのタイミングで
新しい魂が入って、陽子ちゃんがお母さんになったのは何か不思議な
運命じゃないかと思う。陽子ちゃんは「不思議じゃなくて、だから必然」
というけど。今まで、わたしはブログでも言ったことがあるけど、
わたしのお店のお客さんは、子供が出来なくて悩んでいる人もいたから
子供が出来てもここで話さないようにしようと言っていた。
だけど、ここで話そうと決めたのは、何か運命みたいな決まっているものが
あって、子供ができるのはそういう運命で、子供ができないのはそういう運命
なんじゃないかと思ったからだ。わたしたちは自分達の子供が出来なかったら
両親のいない子供をもらって、育てようと思っていたからだ。
どっちにしても、それはわたしたちの人生で、どっちになるからと言って
それが幸せになるか、不幸になるかということじゃないと思った。
心の持ち方で、子供がいない人生で夫婦二人で楽しく暮らすこともできるし
自分の子供を育てても平和に楽しくできるし、自分の子供じゃない子供を
もらって育てても、幸せな家庭を作ることができるんじゃないかと思ったからだ。
結局、すべては、自分たちの人生で、与えられた環境の中で、
不平や不満ことを言わないで、責任を持って自分で選んでいくことで、
幸せだなあと感じる人生にすることができると思った。

今回のスリランカ滞在ことは、今日1日のブログじゃ全然書けないから
サマリーみたいに今日は大きなことを書いたよ。
これからゆっくり、一つ一つトピックを書いていこうと思う。
今日まで、書くのに時間がかかっちゃって、毎日見に来てくれた人がいたら
ごめんなさい。これからも、いろいろお手伝いをしながらだから
少し遅れることもあると思うけど、頑張って続けていくので、
どうか宜しくお願いします。

皆さんも人生できっといろいろ苦しいことや、お別れを経験したりすることも
あると思うけど、心の持ち方をいろいろ角度をかえて、調整して
だんだん笑顔が多くなるように頑張ってください!!
今、とても幸せなひとは、それを他のひとにもあげられるといいね。

じゃあ、冬になっていくから、体に気をつけようね!!!
ありがとうございました。

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